昭和41年10月25日 朝の御理解



 昨夜の御理解に、日に日に生きるが信心なり、という御教えについての御理解を頂いた。日に日に生きる、ということが信心だと。誰でも、日に日にこうして生きておるのだから、それが信心かと。そうでもなさそうである。まぁ例えて云うなら、丁度、椛目の方達の場合ですね。椛目の神愛会という、その汽車がここにあります。それを教祖の神様がお開きになるところの、天地を貫通する軌道がある。
 天地に道ありと云われる、その天地の軌道の上に、椛目の神愛会という汽車が、その上を走っておる様なもの。椛目に御縁を頂いてる全ての人が、その汽車に乗っておる様なもの。日に日に生きるというのは、自分の心の窓を開かしてもらう。動いておるその汽車から、心の窓を開ける事によって、そこにさらな景色が展開して来る。そういう風に頂いてから、私始めてははぁ日に日に生きるが信心とは、そういう事だと思うた。
 自分の心が生き生きとしてくる。自分の心の窓が開いてくる。本気で限りなく美しうならしてもらおうや。為には、改まらなければできん。為には、磨かなければできん。教えを頂かなければできん。心が開ける、心の窓が開く、窓にかかっておったみすが、上にあげられる。お道をけがす、信心をよごす、心配をさす、みすを奉れと仰る。その汽車の窓にかけられておるところの窓が開くとか、みすを上げるとかと。それが段々出来ていくところにです、その窓から見ゆるものは、新しい景色なんだ。
 それこそ、廻り灯篭の絵のように展開してくる、新しい景色を眺めさして頂く、そういう生き方。ですから、信心しておるからというて、いわば日に日に生きるが信心というような、信心ではない人が沢山、だからあるということ。自分の心がいつも同じところにちゃんとある。というのは、汽車そのものは動いておる、椛目そのものは動いておるけれども、窓を閉め切っておるのである。
 そんな意味のことを、いわゆる具体的に、昨夜の御理解に頂いたんですけれど。ははぁ日に日に生きるが信心なり、成程、その語呂からですね、なんとはなしに力強い、そういうものをその御教えから、ばく然と感じおったけれど、それを具体的に分からして頂いたら、成程、教祖の神様の御信心というものの、素晴らしさというものを、いよいよ感じん訳にゃいけん。
 もう日に日に、三代金光様が信心は日に日にさらでございますと仰った。あの気持ちが分かる。いつも心の窓を開けてられるものですから、ですから、その窓から見えてくる、展開してくる景色というものは、いつも違った。ですから、いつも、しかしそのものは同じであっても。例えば、私共でも、ここに御結界に奉仕をするということは、それこそ十年一日のごとく変わらないのである。
 けれども、私の心の中に、生き生きとして頂くところの喜びというものは、いつも更なものである。その更な心、生き生きとした心、そういう心に、私はおかげがあると思う。一生、信心はしておるけども、とうとう窓も開けんなりに、暗いあんたんたる毎日を過ごしておるというような人も、信心者の中にたくさんあろうかと、私は思うのです。ですから、不安、心配、焦燥、不平、不満。信心しておってもです、そういう心で生活をしておるとするならばです。
 それは汽車には乗っておるけれども、矢張り暗い生活をしておるんだということです。汽車に乗っておるから、おかげは頂いていくけれども、それではつまらん。自分の心がどのような場合でも、唯トンネルの中を通るような場合でも、信心の光がパッと灯るところにです。トンネルの中もさほどに苦にならん。また次には広い平野が開けてくる。而も、それが一筋に、天地を貫通する軌道に乗っての進行である。進んでいくのである。皆さんどうぞ、その日に日に生きるが信心と仰る。
 その御教えを聞いただけでも、何か心がこう生き生きとして来る様な感じはするけれども。日に日に生きるという事は、ほんならどう言う様な事か。私の心の中にしている仕事は毎日毎日、もう同じ事をしておるんだけれどもその内容が違う。見えてくる景色が違う。汽車の旅の様なものである。お互いの心の窓が開かない所に、何時も見つめておるのは汽車の壁ばかりである。それでは皆さんつまらんでしょうが。
 そこでひとつ私は今朝からの皆さんに、お互いの心の中に、わが心が神に向うのを信心というのじゃと仰る様な心がです。本当に育っていかなければいけないということ。先日からその事に付いて、頂いておりますですね。和賀心が神に向うという事は、どういう事か。椛目に参ってきとるから向うとるのじゃない、と言う様な意味のことを、ある御信者さんの、信心の無いお母さんが、椛目に柿のお供えをしてくれと仰った。
 もう椛目に参って来た事が無くてもです。椛目にこの柿のお供えをしてくれと、そこにもうその人の心に椛目に向いておるのであり、心は神に向うとるのであるという事であった。だから、そういうような心がです、段々こう育っていかなければダメである。どういう風に皆さん育って行きよるだろうか。育っていかなければ、私はおかげも育っていかんと思う。そこで段々、信心を進めてやらせて頂くのですから。
 そこんところに焦点を置いて、どうぞ、心が神に向うていくという、生き生きした信心を願わしてもらい。又、工夫さしてもらわなければいけない。昨日、ある方が、それこそあるお願いをなさった。そのある願いというのが、まあ普通から云うたらです。信心しとって、現在の椛目の信心を頂いておって、今頃そんなこと云うてからと、まぁいうような内容のお願いであった。ところが、神様にお願いさして頂いたらです。そんなことは問題じゃない、そんなことが神様の方へ響くことはないと言うてあった。
 まあ、例えて云うならばね、大地をみだりに穢すなよと仰るが、大地を穢したくらいなことで、神様がビクともなさる神様じゃないて。腹を立てなさるような神様でもないて。ま例えて云うならばですよ。信心しとってこんなことは云われん、こんなことはされん、こんなことはしちゃいかん、そういうことは無いて。そういうことで、心にひっかかるようなことで、だからあってもならない。自分な、信心しよって、まあいうならばです、こういう悪いことをして なら悪いことをしておる。
 あぁこんなことじゃ自分なおかげ頂ききるまいと。例えば、そういう事に引っ掛らんでも神様はです、それを責めなさるような神様じゃないということ。だからそんなことは問題じゃないですよ。成程、椛目は現在御造営中です。御造営、御造営に一心に皆が、心を向けておる時ですから、普通から考えるとそりゃまぁ一時、見合わした方がよわないか、というような感じがするけれど。そんなちっぽけな神様じゃない。
 それにひっかかる様なことがあっちゃならん。はぁそうですか、そんならまぁ御無礼かも知れませんけれども、〇〇さしてもらいます、とこういう訳なんです。御無礼かも知れませんけれど、それがいけん、御無礼じゃない、そんなことは。いうならば、だから、そのことを有難くさしてもろうたらええがと私が。それで、心にひっかからんですむ訳なんです。それが帰られたあとなんです、そういうお取り次をさして頂いたそのあとにです、神様から頂くことですよ。
 まあ人間の言葉で分り易く云うならね。ああ云うたけれども、けれどもあれでは修業にならんと神様が仰いました。この辺に今日の御理解皆さん聞いて頂きたいとこなんです。ああ云うから許しもした引っ掛らんですむ引っ掛る事が、既におかげ頂かん事ですよね。引っ掛からんで済むように、いわば安心してその事が出来るんだけれど。ああ云うて願うから、ああいう風におかげ頂くようには云うたけれども、そのあとにですよ。けれどもあれでは修業にならんと神様が仰る。意味がお分りになるでしょうか。
 例えて云うならば、辛いものが好きだと。ですから、その好きなものでも断たしてもろうてから、神様に一心におすがりしておることがあったけれども。ところがやっぱり、やむにやまれず辛いものが飲みたくなった、食べたくなった、とこう云うのである。それでひっかかる、そんなことは問題じゃないて。神様に、例えて云うならば、嘘を云うようなことになるから、御無礼のようにあるけれども。お前、嘘を云うたなと云うて、神様がそれに、いよいよ、かざさなさるようなこと、決して無いということ。
 そんなことは問題じゃない。引っ掛らんがええといういわば意味なんですよ。ですからその人はいわば断っておった辛いものを、いわば頂きたいと云うようなことになった。そんな事は決して問題じゃないと私が申しました。けれどもその後にです。けれどそれでは修業にはならんとこう仰る。わが心が神に向うという心が育っていくと言う事はです。信心に修業はつきものと仰る。その修業によって自分の心が神に向うて行く。こういうふうに育って行かなければいけんのです。皆さん大事なことですからね。
 本当に信心を進めていきたい、信心を進めたい、信心が分かりたいというと、ここんところが、よう分からにゃいけんのです。でないと、先程から私が申します。日に日に生きるが信心というような、更な心も与えられません。更な喜びも勿論わきません。心の窓を開けることが出来ません。みすを奉ることも出来ません。汽車にかかっておる、例えばそのみすがです、上げられていく、上にまかれていく、そこから、窓から出てくる外の廻り灯篭のような風景が、次々と展開してくる。
 そこに自分の心の中にいつも更な生き生きとした、いやあ素晴らしい景色だなあ。どんなに素晴らしい景色でも、ずっと見とったんじゃ飽きましょうが。どんなに素晴らしい、例えばほんなら御理解をここに頂いておってもです。自分の心そのものが発展しないから、その有難い御理解もただ、感激も何もなくそれを唯聞いておるだけなんだ。自分の心が進んでおったら、よしここの私のお話が毎日同じ話であってもです。
 味わいのある、いよいよ深いものを自分のものにしていくことが出来るのだけれども。わが心が神に向うのを信心というのじゃ。その向う心がです。今日私が申しますようなところへ、だんだん進んでいかなければならない。飲みたいから飲む、食べたいから食べる、行きたいから行く、したいからすると。したい放題、いわゆる、まあいうならば我が侭なことである。
 それがその我が侭だから、おまえが罰かぶるというようなことは無いて、この神様は。けれども、矢張り実意丁寧をもつて、お道の信心の証明と、いわば、謳歌されておるのでございますから、横着の無い、実意丁寧な神信心とは、そこんところを修業と思うて、進まして頂くというような、その心が、もうすでに神に向うておるのである。又信心に修業はつきものと仰る、その修業が、いわばなされていくのですから、おかげ頂かん筈は無いということになるのです。
 わが心が神に向うとらなければ。その向うたその心が、只今、私が申しますような、いわば修業によって神様に向うておる状態に進んで行かなければならない。そしてそれが修業ではない、それはもう段々その信心が、いわゆる、実意丁寧な信心が身について来たらです。それが当たり前のこととして、なされていくところのおかげを頂かなければならん。そこに私は、生き生きとした心の窓が開けられていく。
 どんなに暗いトンネルの中を通っているのじゃなかろうかと思うような時でも、ひとつも自分の心の光によって、暗いところを暗いと思わんで済むようなおかげを頂けれる。而も唯一筋にまっしぐらに、金光道という道を、軌道を、例えば椛目の神愛会という汽車が走るなら走っておる。唯走っておる中にお互いが乗せて頂いておるというだけではなくて、窓から眺める新しい、その景色を、眺めさして頂きながら、素晴らしいなあ、乗ってるそのことはひとつも変わらないけれど、景色が変わっていく。
 日に日に更な信心とはそういう信心。日に日に生きるが信心なりとはそういうような信心。そのために、そういう信心を、自分の日々の生活の中に、頂かして頂くために、神様が、修業で受け取ってくださるような、その修業に精進さして頂かなければいけない。修業せんからというて怒りなさる神様ではない。ああ云うたから、ああしたからと云うて、罰をあてなさる神様ではない。けれども、修業にはならんということは、けれども、それでは徳は受けられんと、いうことになるのですよね。
   どうぞ。